俳句俳諧は松尾芭蕉、民衆と文芸を接近、和歌から続く普遍の美学

芭蕉の俳句は、社会的身分に関係ない視点で事実をあるがままに表現したことで

本邦の文芸史上でも現実主義確立の上で重要な転機となった。

芭蕉によって、文芸がより庶民に身近なものとなったのである。

それを踏まえた上で、一方で芭蕉が抱えていただろう民衆と己との葛藤についてまとめてみた。

限られた文字数で表現をする俳諧には表現の方法にも制限が出てくる。

また、それまでの歴史に培われてきた文学の歴史があり、人間には不変の美学というものもある。

芭蕉の時代にも大昔から伝統とされてきた和歌の美学を欠かすことはできなかったのである。

和歌の繁栄で確立されたその不変の美学を、芭蕉の俳句にも見ることができる。

芭蕉の俳諧は、和歌から続いた普遍の美学を引き継いだ。

その上で、芭蕉は庶民の普段の生活に密着した俳諧を創り上げ、

また、素人の人間が創る俳諧も肯定することで文芸の垣根を取り払った。

より庶民の生活に根付いた文芸を築いたのである。

 

『何に此 師走の市に ゆくからす』 元禄二年

ここに詠われたからすには芭蕉が己を投影させている。

師走の人の忙しさなどを知らずに市に飛んできたからすがいた。

俳諧に没頭し、庶民とはかけ離れた暮らしをしていた芭蕉もまた、師走の忙しさを意識することなく市に来たのだろう。

庶民の活発な生活力を前に圧倒されている芭蕉の姿が想像できる。

己の姿を醜いからすに例えたことで芭蕉が庶民の生活を見下しているわけではないことが分かる。

いや、それどころか地味なからすと比較させることで、

生活力に溢れた師走の庶民を輝く存在にしようとしたのではないか。

庶民の日常にどこかで憧れ、しかしそれには同化できなかった己に対して悩んでいる姿も見えてくるようだ。

芭蕉は文芸をもっと庶民に身近なものとするために俳諧の世界を築き上げてきたといってもよい。

しかし、俳諧だけに専念して日常の生活に追われていなかった芭蕉は、

いつしか庶民の感覚とは違う世界にいるようになってしまった。

和歌時代には一握りの地位ある人間の特権として生まれた文芸を

より庶民の方に近付けたという意味で、松尾芭蕉の功績は称えて良いものである。

だがしかし、この俳句に見られるように、芭蕉自身は民衆に同化できず、

己の居場所を模索して悩み苦しんでいたのである。

文芸が庶民に近付いても、己を庶民に近付けることはできなかったのである。

 

『秋深し 隣は何を する人ぞ』 元禄七年

秋季の円熟を初句に呼びかけるが、その次にくる言葉はあまりに現実的である。

この落差は何なのか。これもまた、芭蕉の俳諧の世界と庶民の生活に存在した溝なのだ。

秋の深さを想う文芸的な気持ちはある。

だがその一方で、これまで隣人の職業さえ知ろうとしなかった自分の生活に

思い当たった時に芭蕉が感じた一抹の寂しさをここで窺うことができる。

この秋の深さを嘆く姿は、同時に己の人生の終焉を感じ取っている姿に重なってくる。

己が築き上げてきた俳諧の世界は円熟し、終わりを迎える段階にまできた。

だが、すぐ隣にあった庶民の世界のことさえも、

結局自分は何も知ろうとはしなかった、という反省の気持ちも含まれるのである。

ここでも芭蕉は己の俳諧の成果について疑問を持っているのである。

自分は民衆に文芸の素晴らしさをより知ってもらうために俳諧に人生を費やしてきた。

だが、自分はその民衆の中に溶け込むことができないのである。

この俳句のように隣人に対しても疑問を持つだけで、結局はそれ以上の追求をすることもないまま生きてきたのである。

人生の終盤を感じながら、芭蕉は今までの己の姿に疑問を隠すことができなかったのである。

 

『月しろや 膝に手を置 宵の宿』 笈日記 元禄八年刊

この俳句は、大商人・正秀宅での句会に招かれた時に芭蕉が詠んだ句である。

前述の俳句に見られたように、芭蕉は俳諧だけに生きてきた己と、

生活のために生きてきた民衆との狭間で悩んでいた部分もあった。

だが、その悩む姿だけが芭蕉の本性ではなかった。

芭蕉は己の俳諧に絶対な自信を持っていたのである。

俳諧の道に生きる己と民衆との距離はあってしかるべきものである。

そう割り切り、自信に満ちていた芭蕉の心がこの句に込められていると思う。

月が出る前の、空の白み。その時間帯には、生活のための民衆の労働は終わっている

つまり、日常生活は終わっている。

そんな時間帯に催される句会で、芭蕉は膝に手を置いた。

膝に手を置く仕草は、別に緊張を意味しているわけではない。

芭蕉はこの時を待っていたのである。

月は風流の象徴である。月が出る瞬間を境として、民衆の生活の時間は終わり、自分の俳諧の出番が来た。

自分が人生を賭けてきた俳諧のショータイムが来たのを知って、意気込む芭蕉の姿が思い浮かんでくる。

それも、決して堅くならずに、あくまで自然体で俳諧の世界に入ろうとしている芭蕉の姿だ。

民衆の日常になじむことができなくとも、己の得意とする俳諧の世界では己の思うがままに表現ができる。

そんな絶対的な自信を持って膝に手を置く芭蕉の姿が想像できてくる。

芭蕉が詠んだこの俳句からは、松尾芭蕉が歩んだ人生が想像できてくる。

 

芭蕉がしようとしたのは、俳諧という方法による民衆と文芸との接近だ。

確かに彼はそれに成功した。

だが結局、芭蕉は自分自身と民衆との間には常に壁を意識していた。

俳諧が壁を越えても、己は越えることができなかったのだ。

それでも芭蕉は臆することなく、己の俳諧の世界を追及した。

最後まで芭蕉自身は民衆に迎合することはできなかったが、

悩み、苦しみつつも俳句に命を注いだ芭蕉の精一杯の姿が見えてくる。