与謝野晶子は情熱の歌人と呼ばれた女性。
その情熱は、一体何から生まれたものなのだろう?
歌集『みだれ髪』には次のような歌が詠まれている。
『おりたちて うつつなき身の 牡丹見ぬ そぞろや夜を 蝶のねにこし』
牡丹が咲いているところから連想すれば季節は春、
それも初夏に近付いてすっかり寒さの消えた晩春のことかな。
蒸し暑くもなく肌寒くもない夜の空気に陶酔したのか、
つい庭先へ出てみた晶子の目に、大形の花を開く牡丹が入ってきた。
本来、その光景は歌に詠まれることなく、晩春の夜の夢として終わるはず。
しかし与謝野晶子は、牡丹の上で休む一羽の蝶を見つけて、あるイメージを膨らませていた。
牡丹に甘えるように眠る蝶に、自分の元で夜を過ごす恋人の姿を重ねた晶子。
そして、蝶を引き付けている牡丹は自分自身だと感じた。
この歌が収められた『みだれ髪』が世に出てから100年。
21世紀の現代でこそ、この歌は抵抗なく私たちの心に入ってくるが、
この歌が詠まれた100年前の当時ではどうだったのかな。
同じシーンを目にしたとしても、晶子の解釈とは反対に、 あわれな蝶を女と思い、
蝶を自分の元に引き付ける牡丹の花にこそ
男を投影させる方が当時の常道だったのだろうと僕は推測する。
しかしこの歌では、明らかに牡丹は晶子であり、世の女性たち全般のこと。
他の晶子の歌に出てくる花という花が全て晶子自身、
もしくは女性全体を指しているという事実。
当時の歌の世界では花という言葉は女性を表すのが通例だったことからも、意図は明白なのに。
牡丹と蝶の関係では、間違いなく主役は牡丹。
当時の恋愛感覚では、女が男を凌駕するものだと公言するのは一般的ではなかったはず。
本来の歌意は、恋人に逢えない夜のさみしさを歌ったものでしょう。
恋に落ちている時は何を目にしてもそれが恋の延長上に見えてしまう、
そんな女心が溢れているせつない歌だ。
夜の闇の中、庭に佇んで蝶の止まる牡丹を見ている与謝野晶子の姿には、
人を寄せ付けない迫力があったのだろうな。
鬼気迫る光景の歌から私が感じるのは、
じっとしていては身体中から溢れ出してしまいそうな与謝野晶子の情熱とエロス。
自分の魅力は、空中を自由に飛び回る蝶をも引き付けてしまうと歌った晶子。
大輪の花を知らず知らずのうちに自分自身と見立てている。
この歌からは、晶子の自分自身に対する揺るぎない自信が見えてくる。
自意識過剰ということではなくて、単純に歌としてその自信が美しく聞こえるよ。